豊砲台跡 - 激動の昭和初期を象徴する遺跡

今日は、昭和初期に造られた”豊の砲台跡”を紹介します。

この跡地は、小学校に入るか入らないかぐらいの頃、よく肝試しの場所として遊びに行っていました。その当時は、今のように灯火も無く、真っ暗の中を何人かで懐中電灯一つでこの砲台跡の中を、お化けが出るのではないかとドキドキしながら探索していた事を覚えています。

(私の脳裏に残っているイメージでは、古い木製の机が当時はあったような・・・不確かですが。)

一時期、立ち入り禁止の措置が取られていましたが、現在は、対馬の史跡名所として、灯火が設置されています。近くには、韓国展望台、ヒトツバタゴの里、海栗島があり、これらと併せて、観光スポットとして、多くの観光客が訪問しています。

場所は、比田勝港から車で30分程度です。

豊砲台跡 地図

昭和初期当時、日本海および朝鮮海峡の制海権を確実のものにする為に造られたもので、昭和4年(1929)に工事が始まり、6年後の昭和9年3月にすべての工事が完了しています。当時としては、世界最大級の巨砲でした。しかし、実際には1発も発射することなく終戦を迎え、戦後、米軍により撤収・解体作業が行われ、砲身は二分され八幡製鉄所で溶かされ、戦後復興の資材として活用されたとの事です。

この砲台が作られた頃の世界情勢は、

中国の情勢

1925年(大正14年)   死んだ孫文の後を蒋介石が継承
1926年(大正15年)7月 国民政府軍は蒋介石を総司令として北伐開始
10月 武漢を占領し、ここに政府を移す。
1927年(昭和2年) 3月 上海を占領して、ついで南京も手中に収めた
1931年(昭和6年) 7月 長春付近で朝鮮移民と中国官憲・農民との衝突事件

日本の情勢

大正デモクラシーの成果で、藩閥政治から二大政党制(政友会・憲政会)の時代へ

1927年(昭和2年)    関東大震災・昭和金融恐慌
1928年(昭和3年)    男子普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)実施
⇒予想外に日本共産党が政界に進出
3月15日    三・一五事件 -共産党系活動家、同調者を大量検挙
治安維持法を改正⇒最高刑を死刑に
6月4日 満州某重大事件(関東軍による張作霖爆殺)
1929年(昭和4年)7月2日 田中義一内閣 総辞職
4月16日四・一六事件 - 共産党系活動家、同調者を大量検挙
10月24日世界恐慌⇒英/米/仏ブロック経済⇒独・日:ファシズムの台頭
1930年(昭和5年)    濱口雄幸内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌
ロンドン海軍軍縮会議が開催
①主力艦を1936年(昭和11年)まで延長する
②補助艦の保有比率を米:英:日=10:10:7とする
全権大使若槻禮次郎はこれを受諾
海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発(統帥権干犯問題)
1931年(昭和6年)8月  陸軍「満州問題解決方針の大綱」を決定
9月18日関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満州事変が勃発
1932年(昭和7年)3月  関東軍主導の元に満州国建国
5月15日       五・一五事件(海軍将校らが犬養毅首相を射殺)
1933年(昭和8年)    国際連盟はリントン調査団を派遣して日本の撤退勧告案を42対1[8]で可決
2月24日     松岡洋右代表は国際連盟会議を退場
3月27日  国際連盟脱退を通告
1936年(昭和11年)2月26日 二・二六事件(皇道派の青年将校が斎藤実内大臣や高橋蔵相らを射殺)

まさに、日本が第2次世界大戦に向かって助走していく時代背景の元に造られた遺跡である事を念頭において見学して頂くと更に考えさせられるのではないでしょうか。
また、今の時代(平成時代)が、この当時の世界情勢に近似していると評する人もいますので、今の時代を考える意味でも重要な遺跡ではないかと思います。

では、遺跡の中を御紹介しましょう。

まずは、砲台跡の当時の見取り図です。

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見取り図に赤色で示された”入口”は、

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入口の左横に、遺跡内の灯火を点灯させる為のボタンがありますので、入る前に押して下さい。
以前は、100円取ってたようですが、私が行った時は、特に料金は入りませんでした。

中に入ると、

巻上機室 - 砲台を動かす為の機械室

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砲動力機室 - 砲頭を動かす為の機械室

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通路

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砲頭部

砲頭部②

砲頭部①

頂上から見下ろした砲頭部(案内板中の写真より)

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当時撮影された砲頭部の大砲(案内板の写真より)

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ぜひ、対馬を訪問された際は、昭和初期の激動の時代を思い描きながら、見学してみて下さい。
今の時代の進むべき道のヒントが浮かんでくるかもしれませんね。